flower syndrome Reconciled Identity
『第三節-きんぽうげ』
密林。三年前の夏にタイへ家族と旅行した。名目上は有名な寺院めぐりと食べ物ツアーだった。私の真の目的は昆虫採集であった。採集といっても家へ持ち帰るわけではなく、写真を撮ったり大きさを測るくらいだ。傍からみればこどもを差し置いて一番ムキになっていたに違いない。もちろん帰路に着いた後、私は女房にこっぴどく叱られた。悪ガキに叱責する肝っ玉かーちゃんのように。
叱られた理由は昆虫採集のことだけではない。女房いわく、ひとりだけ裏でこそこそと楽しんでいるんじゃない、らしい。裏っておまえ、以前に何度も説明したじゃないか。私は学生の頃から昆虫採集が趣味で、その資料をファイリングしていることを。いま一度説明すれば聞いた事がないとぬかす。健忘症はよしてくれ。挙句の果てに昆虫ファイルは妻に取り上げられ、遊びの外出は許可制になった。タバコは吸わないし酒も飲まない、ギャンブルも虫唾が走るほどなんだぞ。そこらへんのグータラ親父とは違うと思っている。子どもにも頼りがいがある父親と認識されている。ただオヤジ臭がするって言われるけど。何がどう気にくわない。私にはわからない。いつものように接しているじゃないかよ。何がどう気にいらない。こたえはどこにあるんだ。
静かに杉山晃氏は目覚めた。頭上にある窓のカーテンの隙間からみえるものは、空が幽かに白み始める早朝であった。特別でもない、いつもの朝だ。家族を起こさぬ様静かに寝室を抜け出し、新聞紙が投函されている外のポストへと向った。
杉山の住むのは埼玉県の某所にある集合住宅地である。程近くに交通量の多い道路があり始終賑やかだが、この時間だけは鳥たちの声でかき消してくれる。杉山はポストの中の新聞紙を取り出し、そのまま家の中へと戻ろうとした。玄関のドアをあけたときにバサバサという音が聞こえたのである。音のほうへ振り向くとゴミステーションに降り立つカラスが居た。カラスはなんらかのゴミを数回突付いた後、すぐに飛び立って行った。その一部始終を見終えると、興味を無くした杉山は静かに玄関のドアを閉めた。
一時間後、杉山は仕事のために徒歩で最寄の駅へと出発した。毎日思う、たかだか一時間でこんなに暑くなるものなのか。これからもっと暑くなると考えると気が滅入る。ゴミステーションの前を通過すると、カラスが何かをつついていたことを思い出した。ふと置き場をのぞくと、真っ黒に塗り潰されているキャンバスがあり、大小複数の穴ぼこがあいていた。一平方メートルくらいのキャンバスである。今日は資源の日だが……回収されるかよ、こういうものは清掃センターへ持ち込むか解体して出すんだろうが。痛い目に遭わなければ理解できないだろう、あえて見て見ぬ振りをするがこれを最後の優しさと覚えよ。杉山は腕時計をかざすと我に帰った様に歩き出した。
雑多で塗れる駅構内。その多くは通勤通学の人ごみであり、電車に吸い込まれては吐き出されている。
『まもなく終点ウエノへ到着いたします』
暗褐色の人影をしならせながら無数の葦は行進の準備を始める。電車の動きは止まった。ゆっくりと電車のドアが開き、でこぼこの波が外へなだれ出でた。ひとつの波は次第に川となり分散していった。
会社へ到着した杉山はしばらくの間仕事の資料の整理をしていた。一息がついた所に部下が歩み寄ってきた。何でも、杉山宛の郵便物が届いたのでこれを渡しに来たという。
「小包か。うん? あら、送り主の内容がないよう。なんちゃって」
あからさまにふざけた口調で杉山は解説した。部下は瞬時に顔を背けたが、肩を冷たく震わせているのをみて杉山はほくそ笑む。部下の肩をポンと軽く手のひらで叩き、それから小包の包装を解きはじめる。小包の中身は全ガラス製でできた正方形のちいさなアンティークであった。その内側にドライフラワーのような黄色い花がガラスに閉じ込められている。
「なんか良いねえ、これ。ガラスの中の花も可愛らしいし、玄関とかに飾ると最高なんじゃないかねえ」
杉山は両手で小物を支えつつ様々な角度に変えて観賞した。小物といえどもずしりと重い。
「中にある花は何ていう花だろう。君、何だかわかるかい。そうか知らないか。ま、帰ったら母ちゃんに訊いてみるか。見識があるようなこと言っていたから」
杉山は部下へ問いかけた。部下はこのような個人的なものが会社へ届いたのか疑問に思わないのかと、杉山に問い返した。杉山は気にも留めなかった事の重要性に気付き、血の気が引いた。どんな嫌がらせなんだ。いやたまたま送り先が会社だったんだよ。仕事に関する荷物ならともかく、私個人のものだぞ。おまけに送り主の情報が一切ない。安易に開けるべきものじゃなかったのかもしれない。杉山が凍り付いている中、部下は包装紙を手にして確かめるように眺めていた。
「これ……よく見てみると、杉山さんの字に似ているような」
杉山はそんなばかなと言わんばかりに顔を歪め、再度送り先の書かれている文字を確かめた。確かに自分の筆跡のような気もするが、そうでもないとも思える。これこそ思い込みすぎではないのか。杉山の感情は完全に凍てついていた。
某農大の研究室に日夜こもり続けるのは橘真人である。一度集中すれば、一切食事もせず夜通し仕事をこなしてしまう。そのためか、集中状態の橘には助手が差し入れを静かに置き去って行く。一段落つくと急に腹の虫が喚き出し、冷めきった弁当を温めず適当にむさぼる。ほぼ毎日こんな不規則な生活ではと、学生や助手に心配されるが逆に「自分の生活のほうを心配しろ」と橘は説教する。
今日の午後の講義も終わり、橘はさっそく生活の場である研究室へと歩き向った。腕と首のストレッチをすると大きなあくびがでた。先生先生と呼びかける女性の声が聞こえたので、その方へ振り向くと助手の芦川が駆け寄っていた。
「先生、講義室に先生愛用の眼鏡置きっ放しにしてありましたよ。研究に没頭するのも良いんですけど、ちゃんとお風呂に入ってしっかりと寝てください!」
「ああ、わかってるよ。眼鏡サンキュー……と、お前なんで講義室出入りしてんだ? 学生でもないのに」
「ちょっとうちの学生に言っておくことがありまして。先生って細かいですよねえ。ほんと小さなことに敏感ですよ。研究のたまものですか」
「そうか。そういってもらえると光栄だよ。あ、昨日の夜食ありがとう。また借金増えちまったなあ、まいったな」
「大丈夫です。先生の研究費から差し引いていますから」
「全然大丈夫じゃないだろう。さらっとそういう怖いこと言うな」
「冗談ですよ。だからこれ以上借金増やさないように、研究も腹八分目にしてくださいね! では、これから用事があるので失礼します」
芦川はとてとてと駆け足で去っていった。今年から学生上がりで橘の助手となった芦川だが、お節介のような行動に一匹狼の橘は困惑していた。手渡された眼鏡を胸ポケットにしまいながら、たまには早く帰宅して家で飯を食べてみるかと、落ちる夕日にうったえた。
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