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flower syndrome Reconciled Identity
『第四節-交差』

 日も落ちた午後七時すぎ頃、橘の教え子の複数の学生たちは研究室内で雑談をしていた。

「絶対そうだって! 見たんだもん、コンビニ弁当じゃなくて手作りのやつぅ」

「でも、朝一に研究室へ来たけどそんなものなかったなあ。仮にそうだとしても空いた容器は捨てないでしょ」

「見たって言い張っけど、どの時点で見てんだよ。あいつが弁当持ってうろついてた所を、誇大妄想で解釈してんじゃねえだろうな」

「そうやって皆していじめるんだからー! だから芦川さんがあ――」

 部屋のドアが開く音を感じ、学生たちは一斉に息を止めた。何らかの話し声と共に、次第にその存在は近づいてくる。学生たちの目の前に現れたのは橘とその助手の芦川だった。

「静まり返って何やってんだ、お前ら。気持悪いったらありゃしない。やることないんなら、ほら散れ散れ」

 橘に一喝された学生たちは口々に愚痴をこぼしながら解散していった。それまでおとなしくしていた芦川が小さく呟いた。

「これぞ先生、って感じですよね」

 哀しげに語る芦川の様子に橘は一息ついて切り返した。

「どうした? しょぼくれて」

「率直にいいますと皆に対して自信がないんです。いえ、無くなってしまったんです。私は知っています。皆が軽蔑するような静かさを取る態度の原因……。私が先生に媚びを売っているんじゃあないかって。そう思われていると思うと、急に皆が怖くなってしまったんです。会うたびに何かよそよそしくて探る様な態度をとってくるんです。自分は情けないです」

「お前が思い描いている『芦川』と、皆にとっての『芦川』は違ういきものだ。これは当たり前だな。どんな状況にせよ芦川が不安になったりすれば、皆も不安になる。状況が不安を作り、お前は不安になる。その不安を無くそうと努力する。この努力はとても大切なんだ。難しく聞こえるかもしれないが、たんに解放すればいいだけのこと。そう、今お前が俺に打ち明けたように」

「……ありがとうございます。でもそういう理屈だから私は『そう』なんだと信じたくないんです。理屈は人を縛り上げるんです」

「学者は理屈の塊だろ。お前も俺もそれを言えることか。学者が作った理屈を素人が誤って使ったらわからんでもない。俺らは化け学のように数字で物事を分別するというよりは、かたちで捉える分野だ。つねに『誤差』が生じる中で、数字で答えを導き出すのは難しい――」

「先生は研究熱心ですよね。だけど、それだけなんです」

 言葉をさえぎり残念そうな態度を取る芦川に、橘は何が気に入らないという引きつった表情を見せた。急に夜のひんやりとした空気が流れ込む。

「あの〜……すみません。ちょっと忘れ物取りに帰ってきました」

 ひとりの女の学生が悪ぶれもなく二人の横を通り、部屋の奥にあるロッカーの中を探っている。橘はその姿を黙って見送った。先ほどまで居た学生たちとは別の学生だ。ロッカー開閉の金属音が、書類のこすれる音が、本が地面に落ちた音だけが静かに部屋に響く。学生が事を済ませ終えようとしたときに、橘と芦川の何らかの会話のやり取りが聞こえた。静寂というストレスが聴覚を鈍麻させていて、音声はただの耳鳴りとしか認識できない。学生は急いで荷物をまとめ、部屋の出入り口まで駆け込んだ。

「おい、教室内で走るなってあれほど言ってるだろう。物壊したりしたら弁償してもらうぞ、ったく」

「……すみません」

 駆ける物音を聞いて学生の姿が見える前から、橘は説教をはじめる。ゆっくりと姿を現す学生の瞳に芦川の姿は映っていなかった。


 構内の自動販売機の光は不思議な引力を放っている。あふれる空き缶箱にうまく缶を載せ、橘は憩いの場を後にした。

 明日は学会の会議である。前々から準備していたからプレゼンテーションの抜かりはないと思うが、念のために資料を読み返しておこう。灯りに集う蛾たちはその光を花畑と思わせるような、華麗な舞いを披露している。なにげなくその様子を眺めた後、橘はゆっくりと研究室へと向かった。

 使い込んだ回転椅子を手前に引いて軽く腰を下ろすと同時に、右手前方にある書類棚に手を伸ばす。ここに置いておいたはずの明日の資料がない。見つからない。自分の記憶違いかと思い、橘は腰をあげて周辺を中心に探し始めた。念入りに探してもやはり資料は見当たらない。資料をこの研究室から持ち帰ったことはないし、誰かが持ち去ったとしか考えられない。重要な書類はあの他にもたくさんここにはある。今になってピンポイントであの資料のみを持ち去る奴はたかが知れている。オレが明日あの資料を使うと分かっている人物。芦川、まさかお前じゃないよな。もしお前だとしても何故そういう事をする。そんな事をする人間じゃあないだろう……?

「…………」

 橘の背後に助手の芦川が無言で突っ立っている。芦川の気配を感じた橘は振り返らずに思いを語りだした。

「なんだ芦川か。今は仕事中じゃないんだから部屋へ黙って入らなくたっていい。それよりもお前、オレの明日使う資料いじったりしたか?」

「…………」

 依然芦川は死んだように黙ったままである。穏やかに振舞っていた橘だが、芦川のふて腐れた態度に業を煮やした。

「芦川ッ! お前がや――――!?」

 橘は勢いに任せて背後に振り返ったが、芦川の状態を目の当たりにし愕然とした。それは芦川の気配をまとった謎の男であった。顔は真っ黒に塗りつぶされていて平面的であり、体格は芦川のそれである。それなのに男? 誰だこいつは。

「……あ……しかわ、ふざけるなよ。お前こんな時間になにやってるんだよ。ふざけてるんじゃ……」

「ふざけているのは先生のほうですよ。そんな恰好でどこへいこうとしているんですか? こんな夜中にそうやってふらふらしていると警察のお世話になっちゃいますよ」

「オレはいつも通りの恰好をしてるぞ。オレはお前のその恰好のほうが心配だ。どこか吹っ切れちまったのかよ」

「わたしはなにもしらない」

 芦川は急に少女のようなろれつの回らない口調で言った。橘は本格的に芦川のメンタル面を気にし始め、ゆっくりとそばに駆け寄った。

「おい。あのさっきのこと気にしているのか? おまえがそんなにショックを背負い込むとは思わなかったものだから……。な、しっかりしろ」

「先生は知っているはずです。明日、私は先生になるんですよね。そしたら私はここからようやく旅立てる。明日の私は新しい先生になれる!」

 橘は言葉を無くした。そうか。何故こいつの顔が見えないのか今更になってようやく理解できた。だがこうなってしまった以上、オレはもう元に戻れそうもないな。 



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