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後篇

 ぽつりと白い空間に私はとり残されている。引力に従って見下ろすと、自分の胴から下が黄で塗り潰されている。視線を躰から外してゆくに伴い、色が足元から沁みだし、地が黄に染まってゆく。黄は彼方の水平線へ辿り着くと、一気にせりあがって眩しいくらいの菜の花畑を咲き誇らせた。
 そう。ここは思い出の聖地。唯一無二の幸せの断片。誰のためでもないし、欲望に求められ続ける限りここに在り続ける。欲望を求める『人間』は欲望を追い求めるだけで、欲望を獲得することはできない。求めている中途の段階で恍惚し至極の快感を得る。その望まれるものの真意は何?
 善意と悪意が入り交じってますます混沌とする世界。私はそんな世界を見切った。気持ちは交錯するしかなく、時が経つにつれ自然と孤立していった。私はなんて脆いんだろうか。根が強ければといくつ悔やんで憎んだのだろう。
 私に幸福がなければここまで生きることはなかった。打ちひしがれてやつれている時、天から『幸福』を授かった。それからというもの幸福のひとつひとつを愛でて、愛でて、愛でて、そして離別した。悲しくはない。それらには私の意思が刻まれているのだから。
 別れ際に『意思』にこう伝えていた。

「欲望に一番飢えている人間を知ることができたら教えてね。それが私の望むことなのだから」




「それが俺ってわけか」

 南野浩は面倒くさそうな口調でそういった。しかし顔は青く引きつっている。

「欲望に飢え過ぎてこんな状況になっちまったのかよ。わけわからねぇ。独りになりたいとか思ったことは思ったが、そんなに酷いことか? 俺みたいなやつはごまんといるはずだぜ? 何故俺が……」

「あら、ついさっきまでの事もう忘れてしまったの? あなただけしか存在していないのに他に誰かいるとでも言う?」

「な……! そうだったな……」

 すべてを悟ったかのように彼は表情を一層曇らせるが、未だに活路を見出そうとしていた。雰囲気だけでそう感じる。私はその活路というものが何なのかを知りたくて、言葉を待った。案の定返事はすぐにはこない。よく見ると彼の唇は小刻みに動いている。それらは言葉をひとつずつ選んでいるように思えた。さあ教えて、あなたの意思を。

「教えてくれ、家族は……妻は娘は俺が居なくなって喜んでいるのか?」

「それがあなたの『意思』なの? 私は知りたいだけなのに、またあなたの質問に答えなければならないの。このようにくだらない事に付き合うのは嫌よ!」

 急変して私は叫びながら髪の毛をかきむしった。

「なんのことだ! 何わかんねぇこと言ってるんだよ……!」

「ごめんなさい。記憶がおかしいの。悪いの。今のは忘れて。あなたのその質問に答えるけど、ひとつ訊いていいかしら?」

 一呼吸おいて「かまわんが」と彼は言った。

「あなたのご家族が喜んでいると思ったわけを教えて欲しいの」

「自虐的すぎて笑っちまうが、あいつら俺が居なくなったら悲しくて涙こぼすどころか、金目当てでうれし泣きしているんじゃないかってね。こう思うのもちゃんとした理由があってな……」




 彼は悲惨な事実を語ってくれた。知らぬ間に妻から多額の保険金をかけられていたらしいのだ。爪切りを探している最中に多くの契約書がファイリングされたものを見つけてしまったらしい。もし『封筒』をあのときあけなくてもいつかは妻に殺されていたかもしれないと。娘も娘で、母の強い刷り込みによって完全に父親に対する自分の意思を失っていた。彼はそれを知りつつも、知らないふりをして生活していた。限りなくゼロに近くとも家族を信頼していたからだと。いや信頼せざるをえなかった。戻るべき家がそこしかなかったのだから。

「辛すぎる話ですね……」

「はっ。いまさらあんたに同情されたくもないがな」

 風がびゅうと吹いて菜の花の真っ黄色な花弁をさらい、そして白い空を淡く黄に染めていった。私は彼にヒントだけを伝えた。

「本当はあなた自身の力のみで知って欲しかったのですが、ヒントを一度だけ伝えたいと思います。『悲劇を都合よく解釈してはだめ』」

「言っている意味が難しすぎるぞ!」

「そのくらい自分で考えなさい! 都合主義もほどほどにしてくれないかしら……と言いたいところだけど、何をすべきかまではお教えします。ここから先へ行くと崖があります。しかしその崖は肉眼ではとらえることはできません。崖の境界線をみつけたらひたすら地面を掘り下げていってください。すると――」

「姉さん、喋りすぎ」

 妹の『中身』が割って入った。私ですら気がつかないほど気配を感じさせない。確かにおしゃべりがすぎてしまった。感謝するべきだけど妹に救われてしまっていい気がしない。

「とにかく、そこにあなたの望む答えがあります。早く、早くいってください」

「言われなくとも、だ」

 そう一言だけを残し、彼は私たちに背を向けて旅立っていった。その姿が見えなくなるまで見届けた。見届け終わって私たちも帰るべきところへ向かおうとした時、妹が念をおしてきた。

「姉さんこそ食べられちゃだめじゃない」




 まっすぐ前を向いて歩いていたらあの言葉を思い出した。

『その先に行くと、死ぬよ』

 心音と共にこだましていた。あいつが言っていたことはそういうことだったのか。しかしどのようにして崖を探せばいいんだ。見えもしないのにどうやって。そして『死ぬ』というリアリティーさえ虚ろなのだ。こう感じさせているのは今こうやって生きているのに対し、『現実』では死んでいるのかもしれないからだと。……いや、考えるのはもうよそう。崖なのだからホフク前進して行けば安全に確かめられるはずだ。
 一心不乱に進み続けた。そして見えない崖に到達した時には服は泥まみれで青臭く、菜の花の良い香りがいつまでも残っている。ホフクから体勢を崩し、あぐらをかいて風に吹かれてみた。夕日が照っている。眼を閉じる。俺は断崖絶壁の目の前に静かに座っていて、遠くの景色には景勝松島のような絶景を思い浮かべた。休ませてくれと懇願をしてみた。みるみるうちに身体は脱力してゆく。冷たい風は清涼感を帯び、崩れかけていた肉体をほぐして正していった。

「掘るのは明日にしよう……」

 仰向けになってそのまま深い眠りについた。
 耳元で何かが聞こえた。何やら人の声のようだが、思い出してはいけないことだったと思う。思い出してはいけないと頭の中でなぞった。すると大音量で「本棚」と響いてきた。目の前に自分の書斎がじわじわと現れ、俺の椅子に見知らぬ男が長い脚を組んで座っている。男は催促しているように見えるが音声は聞こえない。男は椅子から離れ、目を見開いて言い寄って来る。大きい口が開いたとたんに、腹部に激痛が走った。朦朧とする中、目の前から黒い円が迫って来て拡大してゆく。何も見えないし、聞こえない。外部を遮断する円は俺の顔に縫い付けられていた。
 視覚と聴覚を失ってわけのわからないまま外を彷徨っている。右へぶつかり、左に寄りかかり、前のめり、仰け反る。俺には何が起きているのかすぐには分からなかった。だが煽られているうちにとうとう気付いてしまったのだ。

「ああ……あ……あああ……」

 最深部に堕落した。




 厭な夢だった。ありえない。最後の最後まで希望を捨てるわけにはいかないんだ。俺は起床して間もなく崖を掘り起こしはじめた。土を掘り返してゆくうちに何か不思議な感覚に襲われた。鏡に映る自分の姿に見られているようだ。掘り返す、掘り返す。ぽっかりと穴が開いた所から光がもれて、わっと声をあげると同時に記憶がなくなった。




 あくる晴れた日曜日の早朝、引越しの挨拶をしに近所をまわっていた。娘は妻の腕に包まれて眠っている。今度の近所の方は人の良さそうな老夫婦であった。

「かわいい子だこと。結婚してまだ一年でこんなにかわいい子を授かって幸せでしょう」

 顔をほころばせておばあさんは言いよる。

「ええ。余りにも幸せすぎて後が怖いですよ。ははは」

「まあ困ったことがあったら何でも言って頂戴。力になれたらいいけど」

「ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いします」

「そんな畏まらなくてもいいのよ。こっちまで息苦しくなっちゃう」

 笑い声が澄みきった空に響く。粗品として押し花が入っている小さな花の絵画を贈呈した。
 最後の近所さんは異様な感じがした。豪邸なのは確かだが、家自体が緑色のツタで覆われている。庭もジャングルと例えても良いほど草木が雑然としていた。玄関先にはプランターからはみ出た、たくさんの花が生き生きとひしめき合っている。ニ、三回インターホンを鳴らすが反応がない。妻が後で挨拶しましょうと言うので帰ることにした。この時あることを俺は気付いているはずもない。
 あれから数日後の夜、帰宅すると妻が怪訝な表情で言ってきた。

「緑のお屋敷さんちに挨拶いったのなら行ったと言ってくれればいいのに」

「ん? 俺行ってないぞ。今週の土曜日行く予定なのによぉ。どういうことなんだ」

「渡すはずの絵画がないのよ。まだ引っ越してきたばかりだからすぐに見つかるはずなのに」

「んなアホな……」

 俺と妻はしばらく沈黙するが、そのあともう一度家中めぐって絵画を探し始めた。しかし絵画を見つけ出すことはできなかった。仕方がないので新しく絵画を買って贈呈することにした。
 後日再び緑の豪邸に赴くが、人の気配がまったくない。どこかに長期の旅行か仕事でもいっているのだろうか。不審に思って近所の人に尋ねてみた。しかし不思議そうに首を傾げるだけで何ら返答もない。強く言ってみたが、誰も分からないとしか言いようがない様子だった。何故わからないんだ。数十年も前からここに住んでいるあの老夫婦でさえ。俺は後で渡そうと呟き、それから挨拶をしに行くということは記憶から抹消されていった。




 違う。あれは旅行でも仕事でもなかった。家に住んでいつもどおり生活していた。お前たちが見えている今だからそう理解できるんだ。

「いいえ。まだ理解できていないわ、ちっとも」

「そう。まだ理解できていない。ここはあなただけの世界よ」

 大きく絶叫した。携帯電話を握り締めて。










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