前篇
仕事なんて疲れた。家に帰っても誰もかまってくれやしない。残業で真夜中に帰宅すれば、誰も起きているわけがない。冷えた自分の分の飯が食卓に並んでいる。ご飯のりが固まってガチガチになっている始末。その上に「レンジで温めて」という乱雑に書かれた無機質な妻の置きメモ。ああもう嫌だ。独りになりたい。
翌日、俺宛に一通の封筒が届いていた。いつも通りそれは俺の書斎の机にぶん投げられていたが、一目見ただけで何かが違うと思った。あからさまに意図的にやったと考えられる、封筒に貼り付けられた無数の花びら。じっくり見てみると宛て先や切手どころか消印すらない。直接ポストに? いや……まさか。さらに一面花びらであけ口すらどこにあるのか分からない。まて。直接ポストは入れられるとして、何故俺宛てだと妻は分かったのか? じゃあ何者かが我が家に侵入……なわけないしな。考えるのはよそう。朝にでも聞いてみるか。
「そんな気味悪い手紙、知らないよ?」
俺の思ったことをぶつけて見たが、こんな返答だったから余計落ち着けなくなった。
「そうするとどうやって誰が何の目的でこの手紙を俺に……」
「物騒なこと言わないでよ! 第一その中身見たの?」
「見てない」
「そう。見てみてよ」
あの時直感的に封筒だと感じた俺自体が不思議に思ったが、花びらをむしって口を捜した。全て花びらをむしっても見つからない。妻がいじらしくしている。見つけた。辺ぎりぎりに目立たないようにそれは潜んでいた。封筒の口の奥に潜む何かを想像すると、身の毛がよだつ。封筒を持つ手が震えている。
「何かたまってるの。早く確認しなさいよ」
妻の一声にはっとされた。妻の顔に眼を向ける。そこには俺の想像とは裏腹に、うっすらと微笑を醸し出している妻があった。直感的に何かがおかしい、そう感じた。今年で6歳になる一人娘の萌花が、カチャカチャと箸を鳴らして朝食を食べている。そのカチャカチャという音だけがここの空間を張り詰めているのだ。その音は次第に早くなっていく。妙な胸の圧迫感。眼を封筒に戻すと、ぞっとした。空いているはずの左手が封筒の中に入っているのだ。胸の圧迫感はさらに強くなり、冷静な判断すらできそうにもない。それゆえ不安を紛らわすかのようにどうでも良いことを妻に問い掛けた。
「なぁ、今日は土産買ってこようと思うんだが何がいいかな」
しかし返答は無い。ただ微笑みながら俺を見続けるのだ。「どうしたんだ?」とさらに言っても何の返事も返ってこない。あの箸の音が押し寄せる波のように、速く強く鳴り響いてきた。まるでそのシーンだけを繰り返し再生しているかのように。どうしたんだ、俺! しっかり……! たまらず萌花のほうに向くと、その姿は無い。妻の方に振り返ると、その姿も無い。この瞬間俺の神経は一線を超えた。俺は気が狂って、絶叫しながら一生懸命封筒に突っ込んだ左手を抜こうとする。どう頑張っても抜けない。だめだー! 抜けない! もっと冷静に! 冷静に落ち着け! 考えろ! 何故妻や子供がいないのか。何故封筒が……。何故抜こうとするのか。そうだ。俺は中身を確認するために……手を突っ込んだのだ。意思が俺を押し進めていた、そうに違いない。妻や子供が見えないのは俺が冷静じゃないからだ。中身を確認すれば……見えてくる。見えてきて欲しい。言い聞かせて、封筒の中にある薄い紙を握った。
なんてこった。俺は発狂しすぎて死んじまったのか? 周り一面花畑だ。どこまでも、どこまでも続くような畑を彷徨い続けた。花びらを載せた甘い風がぼっと吹き付ける。その風に誘われるかのように俺は振り返る。女の子が居た。全身様々な花びらをまとった見た目14歳位の女の子だ。背後から再度甘い風が通り抜けてくる。それに乗ってきた花びらはすうっと女の子に吸収された。なんなんだあんたは。仁王立ちで警戒心剥き出しの俺は、何も見なかったことにしてまた彷徨うとした。女の子の横を通りすぎた時。
「とまって」
女の子の声。反射したのか、俺は物凄い勢いで振り返り凝視した。しかし女の子は背を向けているままだ。何なんだという疑問の声をあげることができない。不思議なもどかしさに不安を覚え始める。
「あなた、死にたい?」
苛立ち混じりの雰囲気。突拍子でもないことを言われた俺は立ちすくむ。どういう意味なんだ。何故、死が。俺は確かに社会で上手くいかなくて、辛い。だがそのようなことで死なぞ思ったことは……無い。
「その先に行くと、死ぬよ」
「なん……なん……だ……」
女の子の声と俺の声が重なって響く。絞りきられた悶絶が。喉の奥が痛え。呼吸するたびに鼻に染み付く血生臭さ。
「青く透き通った空の下、緑に囲まれながら孤独に赤く生きるのと、黒く何も見えない空間の中、ひたすら白を追いかけながら皆と死ぬの。どっちがいいの?」
何を言い出すんだアンタ。それになんで選択を求めるんだ。訊いて意味があるのか? アンタには関係ないじゃないか。俺の事なんて。依然としてあれから声すらだせない。寧ろ出したくないと言えばいいのか。俺はもしかしたら女の子から答えを聞きたくなかったのかもしれない。
「そう。あなたにはまだこれに応える権利さえない。あなたがこの世界に居られる理由を見つけてから、応えたほうがいい。ではさようなら」
催眠術から目覚めたかのように、はっと正気を取り戻した。目の前には例の封筒が置いてある。ここは……俺の勤務している会社じゃないか。自分のデスクに座って硬くなっていた。それにしても今の『夢』は一体……。その直後俺は異変に気付く。やけに静かだ。勢いよく起立し部屋内を見渡すが、誰も居ない。最近こんな奇想天外なことばかり……。顔面を張り手で強く叩くが、何も変わりは無かった。
しばらく封筒を見つめていた。ふと思い出す。あの時、この封筒の中の紙を掴んだんだったな。しかしそこで終わったんだ。今どんなものか確かめてやる。封筒の中に手を入れようとした瞬間、躊躇する。また手が抜けなくなってさらに不可解なことになりかねない。手元に射しこむ日光を見て思いつく。透かしてみればいいじゃないか。早速強い日差しの場所でガラス窓に封筒を押し当て、見透かした。どうやら紙自体が黒っぽい色をしていて、内容が読みとれない。くそっ……どうしたらいいんだ。そうだ、カッターかなにかで封筒を切って取り出せばいいんだ。デスクの引き出しの中をかき回し、カッターを取り出す。中身を傷つけないように慎重にカッターをいれた。
「ぐっ!」
カッターを入れたと同時に胸のあたりで激痛が走った。おもむろに胸をさする。しかし痛みは一瞬だったため、再度カッターをいれる。また激痛、だが一瞬の激痛。俺はまだ理解していなかった。焦って何回も何回も封筒を連続して切りつけた。
「ぐがぁぁぁぁぁっ!」
例えようが無い痛み。しかし命に別状は無い。気持ち悪くなって上半身のスーツを脱ぎ、Yシャツを脱ぎ、Tシャツを脱ぎ、裸になった。胸には見覚えのある跡がある。ごく最近。は……封筒の傷と一緒だ。しかし胸の跡はみみず腫れのようになっている。何故か嫌に冷静でいられた。『慣れ』なのだろうか。もう何も考えずに、服を着て封筒を持ち部屋から出た。
エレベーター行きの通路を歩いている。依然として人気を感じない。何も考えたくは無かった。考えれば全てが恐くなる。泥沼のようにずるずると落ち、葬られる。エレベーター手前についた時、後ろのほうから人から声をかけられたような気がした。
「誰か、居るのか?」
思わず気持ちが口に出る。しかし返事は無い。俺の脳裏には今はなった言葉がこだまとなって鳴り響いていた。即座にエレベーターの下の階へのボタンを必要以上に押す。人が居ないせいなのか、すぐにエレベーターが来た。一階へと降りる。到着するや否や、携帯電話が震えた。メール? 確認を急いだ。
『差出人:南野 浩
件名:なし
内容:なし』
何だ空メールじゃないか。意味ねーじゃねーかよ。ん。俺の……名前だ。なんで、なんで。送った記憶もない。くそっ、わけわかんねーよ。見えない恐怖に震えながら唯一帰えられる場所、家族の元へと気持ちが馳せる。しかしどのように行けばいいんだ! 外への出入り口が、無い。
日も暮れ、夜になった。俺はエントランスの受付あたりで独り横たわっていた。疲れて寝ちまったみたいだな……。それに随分冷え込んでいる。体をさすって身を温めた。ふと感じる妙な圧迫感。押し寄せてくる圧迫感。エレベーターの方から何かが近づいてくるのが分かる。
「パパー」
萌花、萌花なのか? そのあどけない声に全神経を傾けた。声だけが奥から聞こえる。疲れきった体を起こし、呼びかけられるまま手探りしつつエレベーターへと向かった。その手前に闇の中にぼやけて映る2つの影がある。俺には優しく微笑む二人の家族が見えていた。二人はだんだん闇へ溶けこんで行く。見失わないように俺も歩み進んでいた。次第に何処からともなく失笑がわきあがる。
「あのおっさん脳みそイカれてんじゃねーの?」
飛び交う。
「世の中広いといったって、あんなやつがいるとはな」
飛び交う。
「関わりたくないわねぇ」
うるさい、てめえらに俺の気持ちがわかるか! 勝手に聞いてんじゃねぇ、てめえらは生きてても何の価値もない! さっさとおっ死ね!
「お前が消えればいい」
何十にも重複した声が聞こえると同時に、俺は痛みも感じる間もなく消えた。感情を昇華させて大気へと消えた。
「生存者一名確認!」
レスキュー隊員が猛々しく叫ぶ。意識がもうろうとして状況が掴めないが、ふたつだけわかることがある。ここは鬱蒼とした森。そして熱い。隊員に背負われて、急な崖斜面を登り始めた。
「パパー!」
萌花が俺に叫んだ気がした。それは悲鳴を超えた、生に対する憎悪。俺は隊員に萌花がまだ生きていることを必死に伝えた。
「……気の毒ですが生き遺ったのはあなただけです。大雑把に状況を説明すると、あなたが運転していた車がここの急カーブを曲がり切れなく崖に転落。そして運良く運転席側が木のクッションによって守られ、助手席と後部座席に座っていたとされる奥様さんと娘さんが窓ガラスを突き破って……」
「やめてくれ。もう……わかったんだ」
それ以上は聞きたくなかった。完全なイメージとして心に止めたくなかった。悲痛に打ちひしがれて頭をがくりと落とす。その瞬間にまた妙な圧迫感に襲われた。しかし今回は体を貫かれている様な。強烈に匂う花の香りが漂ったかと思うと、突然に『少女』が居る世界-イメージ-に切り替わっていた。
「どう?」
少女は事務的に訊いてきた。いきなり「どう」とか言われても。そもそも俺は夢の世界に居るのか。アニメのように視点が変わりすぎる。なんらかの役を演じているようで空虚感に包まてしまっていた。
「どうなのって訊いてるの」
いちいち癪に障るぜ、この野郎。
「知らん。知らん知らん知らん知らん! お前は何者なんだ! 一体!」
「……なんなの。その口の利き方。私こそ憎いわ、あなたのこと」
「まず貴様から名乗るのが礼儀だろうが!」
「まずあなたから名乗るのが礼儀ですわ!」
「あぁ早く夢から醒めてぇなぁ!」
「あら夢から醒められないなんてお気の毒ですわねぇ。そもそも貴方自体を私が食べてしまったのですから」
「何?」
「お忘れなの? 貴方、私の大切な所を愛撫したの」
「身に覚えな……まさか。封筒の中身……か?」
「そのまさかかもしれませんね」
「もし触っていたとしても、不可抗力だ。手を抜こうとして必死だったんだ」
「へぇ、そうなんですか。やっぱりそっちの方考えていましたか」
「?」
「実を言うと私、『封筒』そのものですわ。『中身』の妹とは双子なんですの。先日妹が難題突きつけたそうで」
「だからどうした。あの黒く何も見えないなんたら、ってやつか?」
姉の『封筒』はそれを聞いて穏やかに微笑んだ。
「可哀相。まだそのように受け取っているなんて」
人形のように顔色を変えず悲哀を囀った。俺は唾を飲んだが、渇ききった喉をゴクリと鳴らすだけだった。
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