第十一話/離れぬ心
この世とあの世。覚醒と睡眠。見るものと見られるもの。信じるか信じないか。現実は現実と信じ込んでいるだけ。誰がこれを現実と定義したのか。痛みだ。痛むから現実なのだ。痛みを感じる世界で死んでしまえばもうひとつの世界も知ることができなくなるからだ。痛みの逃避によって、もうひとつの世界に置いて行かれた君たちを解放しよう。君たちは生きている。今の私に見えぬだけで間違いなく生きている。既に君たちの救済の措置は完了した。あとは私が逝くだけだ。よろしく頼む。
ニュージャージー州ニューアーク。アメリカ大陸東部に位置し、ニューヨークと隣接している地域だ。数十年前テロによって破壊された自由の女神は再建され、その自由と勇姿と希望を輝かせていた。シグマは故郷である『月』への帰路を辿っていた。車内は陽気な音楽で満たされ、決して上手くはない口笛を吹き音楽とハーモニーを奏でた。午前の海岸の清々しい風と太陽を受けさらにアクセルを踏み込む。ちらとバックミラーを覗くと黒い塊が真後ろにつけていた。黒い塊は左右に分離し、あるべき車の形を取り戻した。二つに分かれた車はあっという間にシグマの車を板挟みした。左方を窺うと向こうの助手席側窓が徐々に開き、ライフルを構えた暗殺者が現れた。目を合わす暇も与えずライフルを速射した。シグマは素早く身をかがめ銃弾をかわす。舵取りは自動に設定。懐からハンドガンを取り出し、身をかがめながら相手の様子を見守る。
「やったか」
黒い車の後部座席に乗る長らしき人物が狙撃者に問いかけた。狙撃者が否定の態度を取ると、長は間を置いて静かに注文した。
「車ごと破壊しろ。『ブツ』はそう簡単には壊れん」
それを聴いて狙撃者は躊躇した。ここで『ブツ』を無事回収しなければ己の身は闇に葬られ、今の言葉に背こうとすればその瞬間に殺されるであろう。この絶好の機会をシグマは逃さなかった。隙だらけの狙撃者に数発弾丸を浴びせる。崩れ去る体を見届けていたその時、シグマの乗る車体が大きく揺れた。右方の黒い車が体当たりしたのだ。シグマの体も揺さ振られドアへ頭部を強打した。カーブにさしかかると右方の車は崖である道路外にシグマ車を押し込む。
「やべぇ。このままだと俺死んじまうわ」
流石に楽天家も焦らずにはいられなかった。何故。何故俺は狙われてる。いや理由よりも今は状況の解決が先だ。俺はこの体であっちに帰りてぇんだよ。ここで死ぬわけにゃいかねぇんだよ!
「うあがああああああああぐ!」
シグマの咆哮は天に突き刺さんばかりであった。いままでの楽天ぶりは消え失せ、獰猛で狡猾で狂気な瞳を光らせた。車はガードレールを押し破り、今にも崖から落ちようとする瞬間にシグマは自ら崖へ飛び降りた。シグマの愚行に暗殺者たちは嘲笑う。長は部下へ直ちに『ブツ』の回収に行かせ、同時にシグマへの完全なる殺害を命令した。
「……シャワー、の前にゴミの始末だ。飛ばせ」
長は運転手に強要した。スピードを出せということではなく崖から飛ばせという意味だったのだ。長と長い付き合いをした運転手だからこそ真意は見えていた。仕えることが幸せ。長のためなら命も惜しまない。それは部下全員同じだった。車はユーターンし、シグマが落下した地点へ向けて全速力で駆けていった。
ウィンったら。ウィンったらっ。どうして解らないのよっ。変なところだけ鈍くさいんだから。スカイナラは自室に引き篭もり、苦心していた。外はあんなに明るいのに。風が心地良いのに。それなのに雨が降っている様に見える。やがてスカイナラは暗黒の雲に包まれていった。
私はアルファ。ごめんなさい。だしてよう。だしてください。もう何もしないから。本当だよ。ここからだして。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ。きいてるの。ごめんなさいって。ごめんなさい。こわいよ。だして。あけて。おねがいします。何でも言う事ききます。あけて、ねぇ。…………寂しい……誰か……。私はスカイナラ。
私は私が嫌いです。何も上手くできない私が嫌いです。唯一信頼できる人にも毎日迷惑をかけています。生きているだけの私を何故ここまでして気を利かせてくれるのでしょうか。家族だからですか? 死(あなた自身)の罪を軽くするためですか? 私は問い続けるしかありません。不器用な私には感謝という気持ちを質問としてしか掛ける事ができないのです。今や質問さえ掛けるのが怖くて、このように自問自答の繰り返しをしています。閉塞空間では身動きも取れません。私の心の窓を押し開かない限り、現状のままなのは解っています。窓までの道のりが険しいのです。だから助けてください。私はあなたが必要です。
ロッジ内にとても香ばしい匂いが漂う。キッチンにハンバーグを焼くエプロン姿のグリーンウィンが居た。フライパンの上にあるハンバーグの数は四つ。テーブルには病み上がりのAとあの男が静かに座っている。Aは病的で虚ろな目つきで男を見つめた。男はその視線に気付くと、Aに優しくささやいた。
「僕かい? 僕の名はホールといいます。これからここへ住まさせてもらうよ。何、怖がることはない。僕は君に危害を加えたりしないさ」
Aの体はみるみると萎縮していった。そのまま椅子から堕ち、気絶した。その音に気付きグリーンウィンはキッチンから首を伸ばした。Aの姿を見るや否や大声をあげて場所へ駆けつけてきた。
「大変じゃないか。こんなに熱がある。あの、ホールさん。すみませんが、僕の代わりにA君を部屋までお願いできますか? ハンバーグ焦がしたくないんで」
ホールはうなずき、すぐさまAを抱え部屋へと向った。グリーンウィンはそれを見守っていたが、肉の焦げた臭いを感じると慌ててキッチンへと戻っていった。
Aをベッドに寝かせつけるとホールは一息をついた。隣の部屋から壁を叩く音が絶え間なく響いている。不快感を覚えたホールは音源の部屋の前にたった。ぼそぼそと何かを呟きながら壁を叩いている事がわかる。ホールは無神経に中に居る人物へ問いかけた。
「気持ち悪いから呟きながら壁を叩くのをやめたらどうだい? みんな迷惑してるんだよ。共同生活なんだからそこのところよろしく」
部屋の人物はホールの言葉で激昂し、徐々に声のトーンを上げて叫んだ。
「あんた誰だと思ってんのよ。私を誰だと思ってんのよ。あんたなんか死んじまえ。死ねばいいのよ。消えて頂戴よ。私から離れろっつってんだよ!」
「……僕が?」
悪びれた様子をひとつもみせずホールは答えた。返答はない。だがホールは恐ろしい殺気を感じた。この殺気が人物の答えなのかもしれないと、この場は一旦引くことにした。あれからあの部屋はしんと静まり返っている。リビングのテーブルにはハンバーグが二皿残されたまま夜が迎えた。
君を救ってあげるよ。さあ僕のところへおいで。何、怖がることはない。僕は君に危害を加えたりしないさ。そう、本当。よしよし良い子だ。うん温かいところだよ。君の欲しいものは何でもそろっている。ここと違って毎日は『同じ』じゃない。無数の刺激が、楽しい刺激が君を待っているんだ。怖さも楽しさのひとつなんだよ。かわいい、良い子だ。では行こうか。
「独りと独りが手を繋いでも結局独りなんだよ、だからかわいい」
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