随筆 どんど焼き(鳥追い)
原作:父方の祖父
幼き日の想い出
喜寿を過ぎ、傘寿を迎える日も間近となった今日此の頃、何故か幼き日の諸々の事柄が懐かしく想い出されてならない。
時代の移り変わりと共に古き良き時代の情緒有る慣習が形を変え、或いは失われつつ有ることへの愛惜がそうさせるので有ろうか。
数有る慣習行事の内、70年位前のおぼろげな記憶を辿り、どんど焼き(鳥追い)について思いつくまま書き留めてみる。
旧正月の14日はどんど焼きの日で、子供達にとっては最も楽しい行事の一つで有った。之は子供達が主催で大人の援助を受け、小学校一年生から高等科(今の中学校)二年生までの児童生徒が協力して運営した。
私の生まれ育った矢組集落は当時電灯もない曲がりくねった山道を登り降りして辿り着く、那珂川添いに点在する5戸ばかりの集落で米・麦・煙草・養蚕等で生計を立てて居る鄙びた人情味豊かな平和な里であった。当時は、どこの家でも二、三人小学校へ通って居たので鳥追いには男の子も女の子も全員参加し10人位集まった。通学は沓掛の尋常小学校まで約4キロメートル、伊王野の尋常高等小学校まで約7キロメートル余、毎日皆さそい合って草履や下駄履きで徒歩で通った。今の様に子供用の自転車など買う余裕もなかったので馬車だけがやっと通れる凸凹の山道は、雨や雪の日は泥んこになって歩いて通うのは子供にとって大変だったが病気でもない限り学校を休む子は一人も居なかった。
いよいよ鳥追いの日が近づくと学校への往復の時間を利用して鳥追いについての相談を行い、先ず親方と宿を決める。親方は必然的に上級生が選ばれ、宿も概ね親方の家と云うこととなるのが普通で有った。それから親方が中心となって鳥小屋設置の段取り・会費の集め方・慰労会の方法・その他細かな打ち合わせをして準備を進めて行くので有るが、ああしよう、こうしようと云う意見を纏めつつ皆胸をわくわくさせて夢をふくらませ当日を心待ちながら楽しみにして居た。
鳥小屋は数日前から竹を切り藁や縄を持ち寄って下校後、亦は日曜日等に田んぼの中央付近に建てる。高さは7、8メートル位になり、子供だけでは無理なので若い衆が2、3人手伝ってくれた。寒中なので寒さが厳しく両手にはあはあと息を吹きかけながら作業をするので中々大変な仕事であった。小さい子供は雑用をしたり廻りでわいわい騒ぎあったりしながら作業を見守っていた。期日が近づくと前日までに子供たちは親から会費を貰って持ち寄り各戸からお祝い金を戴いて親方に預ける。親方は上級生2、3人を伴って2キロメートル余離れた寒井のお店へ背負い籠を背負ってみんなに配るお菓子・蜜柑等の買出しに行き、品物は親方の家へ一時保管して置く。会費は小さい子は5銭上級生は10銭位で、お祝い金を含めると約2円になり相当の買い物の量になった。
いよいよ当日になると学校から急いで帰り手分けして一軒一軒廻ってトンボ団子(戸口へ木の枝に刺して飾った団子)と松飾りを集め、松飾りは鳥小屋へ団子は宿へ持参して煮てもらう。夕方になると留守番を残し老いも若きもみな鳥小屋に集まり風の治まった頃合を見計らって小屋に火をつける。松飾りも一緒に燃やし、今年の豊作と家族の息災を祈る。青竹がバリバリ、ドスンとはじけ炎が夜空の中天に達し壮観で有った。
火が大体治まってからその燠でめいめい餅や団子を焼いて食べ、消火してから宿へ子供達が引き上げ慰労会の楽しい一夜を過す。宿へ着くと先ず前以って準備して置いたお菓子や蜜柑等を子供達全員に公平に分配し、宿のお母さん達が煮て呉れた団子汁に舌鼓を打つ。その後はコタツを囲んでお菓子等を食べながら賑やかにお話をしたり歌を歌ったり、またはカルタや双六・カルメ焼きなどして夜のふけるまで楽しくすごし、コタツにみんなで雑魚寝して眠りにつく。
この様に共に楽しく遊んだ懐かしい友達の何時しか戦死や病死と、櫛の歯が欠ける様に年を経る毎にこの世を去り今は半数以下となり誠に淋しい限りで有る。私たちの少年期より世の中は大きく変遷し、やがて満州事変・日支事変・太平洋戦争そして敗戦と推移しこの様な風習・行事もいつしか途絶えて忘れられて行こうとして居る。
青竹の はじける音が こだまして
子等かけ廻る 鳥追いの夜
懐旧の 想いは募る どんど焼き
逝きにし友の 面影しのぶ
完
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